最大多数の幸福か、個の尊厳か:RPGシナリオで探る功利主義と義務論の対立
はじめに:RPGにおける選択の重みと倫理的思考
ロールプレイングゲーム(RPG)の物語は、プレイヤーに時に困難な選択を迫ります。単なるゲーム内の進行だけでなく、その選択がもたらす結果の多様性や、プレイヤー自身の価値観に問いかける倫理的ジレンマは、現実世界における意思決定の訓練としても非常に有効なツールとなり得ます。本稿では、RPGの架空シナリオを通して、倫理学における主要な二つの思想、すなわち「功利主義」と「義務論」がどのように対立し、私たちの意思決定に影響を与えるかを考察し、大学の教養課程における倫理学・批判的思考教育での活用方法を提案いたします。
RPGシナリオ:古代の封印と生贄
ここに一つのRPGシナリオがあります。プレイヤーは世界を救う使命を負った勇者パーティの一員です。
シナリオ設定
世界に古くから伝わる邪悪な「闇の魔物」が、数百年ぶりに復活の兆しを見せていました。この魔物が完全に目覚めれば、世界は破滅すると言い伝えられています。魔物の復活を阻止する唯一の手段は、古代から伝わる秘儀「星の封印」を強化すること。しかし、その秘儀には「王家の血を引く純粋な魂を生贄として捧げる」という残酷な条件が課せられています。
そして、現在、王家の血を引く者が一人だけ存在します。辺境の村で、自身の出自を知らずに平和に暮らしている心優しい少女「ルナ」です。ルナはまだ15歳で、村人たちに慕われ、将来を夢見ていました。
直面する倫理的ジレンマ
勇者パーティは、世界を救うためにはルナを犠牲にする必要がある、と村の長老や賢者たちから告げられます。ルナの命と、世界のすべての生命。この二つの間で、プレイヤーは究極の選択を迫られることになります。
- 選択肢A:ルナを生贄として捧げ、星の封印を強化する。
- 世界は闇の魔物から救われ、大多数の人々が平和に暮らせる未来が約束されます。しかし、ルナ一人の命が奪われることになります。
- 選択肢B:ルナを生贄とせず、他の方法を探すか、世界の破滅の可能性を受け入れる。
- ルナの命は救われます。しかし、闇の魔物が復活し、世界が破滅に瀕するリスクを背負うことになります。他の方法が見つかる保証はありません。
倫理的考察:功利主義と義務論の視点
このジレンマは、倫理学における古典的な対立を鮮やかに描き出します。
1. 功利主義の視点(選択肢Aを支持する論理)
功利主義は、「最大多数の最大幸福」を追求する倫理学説です。ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルによって提唱され、行為の正しさをその結果によって判断します。
- 考え方: ルナ一人の犠牲によって、何十億もの人々の命と幸福が守られるならば、その行為は全体として最大の幸福をもたらすと考えられます。個人の悲劇は避けられないものの、全体としての苦痛を最小限に抑え、幸福を最大化するという視点に立てば、ルナを犠牲にする選択肢Aが正当化され得ます。
- 課題: 個人の権利や尊厳が、全体の利益のために犠牲にされてしまう可能性があります。特定の人を「手段」として扱ってしまうことへの倫理的な問いが生じます。ルナの命には、個別の価値はないのでしょうか。
2. 義務論の視点(選択肢Bを支持する論理)
義務論は、イマヌエル・カントが代表的な提唱者であり、行為そのものが持つ道徳的義務やルールに基づいて判断します。結果の善悪ではなく、行為の動機や、普遍的な法則に従っているかどうかが重要視されます。
- 考え方: 「人間を目的として扱い、決して単なる手段として扱ってはならない」というカントの定言命法に照らせば、ルナを世界を救うための「手段」として犠牲にする行為は、個人の尊厳を踏みにじるものであり、許されません。「殺してはならない」という普遍的な道徳的義務があるならば、たとえその結果として世界が破滅に瀕するとしても、その義務を破るべきではないと考えられます。
- 課題: 行為の結果が、甚大な被害をもたらす可能性を無視できるのか、という問いが生じます。また、全ての状況において普遍的な義務を貫くことが常に最善の結果をもたらすとは限らないという現実的な問題も抱えます。
3. 徳倫理学の視点(勇者の行動規範)
アリストテレスに代表される徳倫理学は、どのような行為をするべきかではなく、「どのような人間になるべきか」という問いに焦点を当てます。勇者として、どのような「徳」(例:勇気、正義、慈悲)を発揮すべきでしょうか。
- 考え方: 勇者として、弱きを助け、不正を正すという「正義」や「慈悲」の徳を発揮するならば、無垢な少女を犠牲にする行為は、その徳に反するのではないでしょうか。しかし、世界を救うという「責任」や「勇気」の徳を考えれば、犠牲を厭わない選択もまた勇者の行動として解釈できるかもしれません。
教育現場での活用提案
このRPGシナリオは、学生が倫理的ジレンマについて深く思考するための優れた教材となります。
- ディスカッションポイント:
- 「あなたが勇者なら、どちらの選択肢を選びますか?その理由を具体的に述べなさい。」
- 「選択肢Aを選んだ場合、ルナの命の価値はどうなりますか?」
- 「選択肢Bを選んだ場合、世界の破滅に対する責任は誰が負うべきですか?」
- 「功利主義と義務論、それぞれの限界と利点は何だと考えますか?」
- 「もしルナが自身を犠牲にすることに同意した場合、選択の倫理的側面は変化しますか?」
- ロールプレイング:
- 学生を勇者、長老、ルナの友人、一般市民などの役割に割り当て、それぞれの立場から選択肢に対する意見を述べさせ、議論を深めさせます。
- レポート課題のアイデア:
- 「上記のRPGシナリオにおける倫理的ジレンマについて、功利主義と義務論の視点からそれぞれ考察し、あなたが支持する立場とその理由を論述しなさい。」
- 「現代社会において、このジレンマに類似する事例(例:パンデミック時の医療資源配分、公共事業のための住民移転など)を挙げ、倫理学の観点から分析しなさい。」
- 意思決定フレームワークの紹介:
- 倫理的意思決定のプロセス(問題の特定、情報の収集、代替案の検討、倫理原則の適用、結果の評価など)をこのシナリオに当てはめて実践させます。
まとめ:物語が育む倫理的思考力
RPGの物語は、抽象的な倫理学の概念を具体的で感情移入しやすい形で学生に提示する強力な手段です。ルナの物語を通して、学生たちは最大多数の幸福と個人の権利・尊厳という、常に私たちを悩ませる倫理的対立を肌で感じることができます。
このような仮想体験は、学生たちが現実世界で直面するであろう複雑な意思決定の場面において、多角的な視点から問題を分析し、論理的かつ倫理的な根拠に基づいて判断を下す能力を養うことに貢献するでしょう。RPG意思決定ラボは、これからもゲームの物語を通じて、効果的な意思決定と倫理的思考力を高めるための学習コンテンツを提供してまいります。